| 「勝浦こぼればなし」 著:井桁重太郎氏
■:勝浦の朝市
<市の立つ日と所と時間>
勝浦の朝市は亨保の頃は一ヶ月に六日という記録があるとの事ですが、私の知っている明治の末から大正にかけて朝市は毎日でそのまま現在に及んでいます。尤も昭和四十六年の一月から五日と二十五日は休みと決まり、昭和四十九年七月から毎週水曜日(第五水曜日は休まない)に休む事になり、お祭り、お盆、暮れは休まないとのことです。
朝市のたつ場所は昔は毎月一日から十日までは上町、十一日から二十日まで仲町、二十一日から月末まで下町ときまっていたのですが、自動車が多く通るようになっていつの頃からか仲町と上町の一部だけになってしまいました。
明治・大正の頃は季節によって違いはありますが、早い時は朝の六時か六時半ころから始めて正午まで商いをしていました。お盆の大市には夜来て、商いをする場所で夜を明かす人もいました。在の方からよほど早く来るとみえて提灯を持って来る人もいました。朝市を張る地元の商人は他の地区から来ないうちに場所を取りに行き、帰ってから朝飯を済ませ、荷を持って出直す人もかなりいました。
<場代>
朝市で物を売るにはその広さ(使用面積)によって場代を払うのですが、たとえば背負い篭一個の人はいくら、莚あるいは戸板一枚の人はいくらというものであります。毎日結構賑わっていますが、特にお盆前の十日と十一日、暮れの二十七日と二十八日はオオイチ(大市)と云って買い手も多く出るので商人もたくさん出ました。この日は場代も二倍だということを聞きました。
<売る品と売る人>
朝市で売る品は魚介類から穀類、野菜類、日用雑貨、玩具、菓子、果物等ですが何といっても一番多いのは野菜類です。野菜類を持ってくるのはほとんど農家の婦人たちで、自分で作ったものを前日取って翌朝早く来るので新鮮な点を喜ばれます。こういう人たちは永い間朝市に通い続けている人が多く何れも顔なじみで商いをする人と客の間が店舗を持つ商人とは違う感じで親しまれています。現在では、たいての人がバスや自家用車でくるようですが、昔は三里位の所は平気で背負篭にたくさんの野菜その他を入れ、腰を二タ重にして歩いて来たものです。その人たちは市が終わって帰ると明日の支度をする。野菜を取りに行ったり洗ったりして明朝早く出るのに差し支えないように準備をするのですから楽な仕事ではありません。手のあるうちでは、家に残っている人が明日の準備をするようです。
近い所から来る人の中には手車あるいは馬車や牛車にツケダルというシモゴエ(人肥のこと)を入れる細長い樽を野菜や米などと共にのせて来て帰りにはシモゴエを汲んで行きます。これはジョウアゲ(常揚げか)と云って得意がきまって居り一つの権利のようになっていました。その人たちは暮れになるとシモゴエのお礼にもちごめや野菜などを持って来たものです。
余談になりますが、太平洋戦争が終わってからは、ツケダルが闇米を運ぶ容器として大いに活躍したものです。
<値段>
勝浦の朝市で売る品は公定価格がなく、仲間同士で大体の打ち合わせはするでしょうが、ほとんど各自の考えで売っていたようで値の高い人もあれば安い人もあります。従って安い物を買うには多くの売り手から聞いて見なければわからないという人があります。買い手の中には半日近くもひまをつぶしてよい品、安い品を見つけるため、往ったり来たりしている人があります。そういう人に云はせるとこれもかせぎのうちだとのことですが、そういう人はそれが楽しく、一種の趣味かもしれません。値切ってまけさせなければ気のすまない人もいます。いつも値切らない人にはだまっていてもまけてくれる売り手もたくさんいます。
お客商売用に良い品を欲しい人は朝早く市へいきます。旅館や料理屋などは朝遅い商売ですが、朝市だけは早く行きます。よい品を拾っても売れ残りの品を取っても売る人がしろうとが多いだけに始めから終わりまで同じ値で売っているからです。始めて商いに来た人がうんと安く売ったり、あまり高いことを云わない人の品は早く売れてしまいますが、いつも高いことを云っている人は買い手の方で顔を覚えていて、あの人はタカベ(方言)だと云って寄りつかぬので品が残り、市が終わってから戸別訪問のようにして売り歩きます。
大正になってラジオでいろいろの相場を放送するようになったので、東京の相場を参考にして売るようになったようですが、これは高い方を参考にしているように思えました。
<買い手>
買い手の大部分は主婦たちで、昔は少し物を買うにも、たいてい背負篭を背負っていたので盆や暮れの大市などは篭と篭があたって歩けない程でした。売るために品を集める人もありました。朝早く来て在の人の来るのを待ち、買い集めてすぐ勝浦の市で売っている人もあれば、鵜原・興津・鴨川方面の業者が品を集め、売りながら帰るのや、そのまま持ち帰って自分の店頭に並べるなどが相当にあったので朝市の品はよく捌けたのです。
<時季による特殊な売り物>
朝市でおもしろいのは、米や小豆などを一升から三升位、手作り布製の小袋にいれてくるのや、味噌漬や梅干しを重箱にはいるだけ、鶏卵を五六個位他の品と共に並べているのがありました。昔の農村では嫁などはあまり小遣いも貰えず、従って使うことも出来なかったので米などを少しづつ持って来て自分のこずかいにするものもありました。
時季による特殊な売り物としてはフキの葉の上にグミの実や山のイチゴを並べたり、クワ(桑)の実、マキ(槇)の実、シイ(椎)の実、カシ(樫)の実、八重椿のつぼみ、ツカンポ、ツバナ(ちばなのこと)、アケビ、サトンキ(砂糖きび)の茎を一尺位に切ったものなどが出たり、その時々に向くもの、たとえばナリモチ用のイボタの枝(綿の豊作を祈り綿花をかたどってちぎった餅をイボタの枝にたくさん差して神仏に供えるのがナリモチ)とか、節分の前には大豆や大豆のから(茎)を持ってきている。これは鰯の頭をさしたり、福豆を煎る時にヒイラギと共に焚火用として使いますが、勝浦では通称バリバリギを多く使うのでヒイラギも売りに来ますが、ヒイラギは少ないのかバリバリギの方がたくさんでます。バリバリギというのはモチの木の葉に丸みをつけたような木で、この葉をもやすとバリバリ或いはパチパチ音がするのでこの名があるようですが、これはトベラが正しいようです。(昔、節分にこの木の皮をとびらにはさんで悪鬼をさける風習があって、トビラノキ、トベラギの名がある)と書いた本があります。
三月には花のついた桃の枝を、四月八日が近づくと甘茶の葉を、五月には菖蒲(これは軒にさしたり、屋根へ上げたり菖蒲湯用に)、柏の葉を十枚づつ束ねたもの(昔はカシワモチを各自で作ったので柏餅用)、またナガイモ(やまのいも)とフキ及びハチクの筍は節句につきもの、これを食べると耳が聞こえなくならないというのでたくさん出ました。八十八夜頃になるとお茶の葉をたくさん売りに来ました。昔は自分でお茶を作る家がかなりありましたので、お茶の葉は引っ張り凧で市まで来るのを待っていないで買い手が出掛けて行って墨名あたりで買うようになり、それがだんだん買い手の競争となって新坂の方まで出迎えるようになりましたが、こうなると市(いち)の方では場代がとれないのでちょっとごたごたしたこともありました。
たなばた前には短冊をつけるのに枝や葉のついた竹やまこもで作った馬を、お盆前には盆棚用の蓮の葉や花、蓮の実、ホーズキ、ミソハギ、十六ササギ(十六ササゲ)という長い豆、仏だんや墓地に使う提灯掛用の若い女竹、チカラシバ、ミチシバで作った縄、墓地に使う孟宗竹で作った花立てなど、月見の前にはススキや萩、柿、枝つき栗、恵比寿講前には大根、人参、さといもなどは時に多く出ました。
冬至が近づくとユズやカボチャ、暮れには正月の松かざり用材、つまり松、竹、うらじろ、ゆずりは、橙、しめかざり用の新わら、榊などを売りに来ました。現今では門松はハデ商売や大事業所などで立てる程度ですが、昔は門並み立てたので普通の市の場所では置くところもない故覚翁寺の門前とか高照寺、本行寺入口あたりにも出ました。今は、ほとんどが覚翁寺の門前から境内に出ます。門松は普通は松と竹を立てますが榊を加える家もあり、稀には梅を添えて松竹梅にする家もあります。串浜では高梨という姓の家ではタカナシは竹無しだからと云って竹の代わりに榊を用います。
しめかざりは今ではほとんど出来たものを買うようになりましたが、昔は自分で作る人が多かったのでワラを売りに来たのです。
その他季節のものとしては、梅干し用の梅、紫蘇の葉、らっきょう、沢庵用の大根、キナコ、ムギコガシ、ホシコイモ(乾燥いも)、シラボシ(生で作った乾燥いも)、わら草履、又、神様へあげる榊や、仏だんや墓地へ供える花、この中にはシキビ(しきみ、樒)あせびもふくまれています。この辺ではしきみの事を普通ハナと云っています。榊や樒は特別の時季などはなく毎月一日、十五日には必ず出ます。樒を売る人は得意が決まっていてその家へ留守でも置いて行きます。
ふだん市に出ていない人でも、きのこやどじょう、うなぎ、うに、カニなどを取った時持って来れば買い手が喜びます。
その他昔の八百屋には置いてなかったもの、たとえばフキノトウ、ウド、ミョウガ、イモノメ(里芋の芽)、百合根、シイタケ、ハツタケ、ゼンマイ、ワラビ、銀杏などのような気の利いたものが昔から朝市には出ました。
とにかく勝浦の朝市は何でも持って来さえすれば売れるので、売る人が喜び、思いがけないものが手にはいるので買う人が喜ぶ市でもあります。
・・・1978年(昭和五十三年)夷隅文庫@ 井桁重太郎氏 「勝浦こぼればなし」より

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